同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
フィリピ2章18節

 
「共に喜ぶ」という表題がつけられているところです。

不平、つぶやき
「共に喜ぶ」ということ。それとともに、正反対の不平、つぶやきということも語られています。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14)。以前の口語訳聖書では、「つぶやき」ということばが使われていました。では、「不平」「つぶやき」というものはどこから出て来るのでしょうか。それは、救いを与え、さらに、わたしたちに思いを起こさせ、それを実現に至らせて下さる神に信頼しない。そして、自分の弱さを自覚しないで、自分に信頼する。そのときに、「不平」「つぶやき」が、生まれて来るのです。わたしたちは、不平、つぶやきを、神様に対する祈りに変えて行くようにと招かれているのです。

喜び
そして、「喜び」ということが語られています。では、パウロがここで語っている喜びとは、どのような喜びだったのでしょうか。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」(17)。パウロにとっての喜び、それは、奉仕することであり、犠牲を払うことであり、究極的には、キリストのために殉教すること、命を献げること、それが、パウロにとっての喜びでした。

喜びの原動力
どうして、パウロは、そのようなことを喜びとすることができたのでしょうか。それは、言うまでもなく、キリストによって救われていたからでした。そして、そのことを通して、キリストの心を心とすることができるからでした。とともに、もう一つのことがありました。パウロは、「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と言いました。逆に言うなら、同労者であるテモテ、愛の対象であるエパフロデト、祈りの友であるフィリピのクリスチャンたち、そのような主にある交わりがあって、そのような喜びを見出すことができたのでした。

(前川隆一牧師)