その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
                           コロサイ1章20節
御子キリストによる創造と和解と表題のつけられている部分です。

創造主
 コロサイの教会の中に入り込んだまちがった教え、それは、様々な天使を仲立ちとして神に祈るというところから発展して、その天使そのものを礼拝する、崇拝するというまちがった教えでした。そのようなことを背景に、パウロは、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです」と言いました(16)。キリストが、天地宇宙の創造主である。そのキリストの前に、自分は被造物である。そのようなけんそんへと立ち返らせていただきたいと思います。

教会の頭
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、すべて創造されたお方を頭といただいている、それが教会です(18)。言い換えれば、父なる神様、そして、御子なるキリストのまなざしは、キリストのからだなる教会に連なるわたしたちの上に注がれているということです。わたしたちは、神様の前にけんそんであるべきです。でも、それは、必要以上に自己卑下しなければいけないということではありません。神の子とされたという正しいプライドをわたしたちはもっていいのです。いや、持つべきなのです。

十字架による和解
わたしたちは、造られた者、被造物です。また、聖い一点の染みもない神様の前に、罪にまみれた存在です。けれども、同時に、わたしたちは、神様に選ばれた者、特別に選ばれた者、神の子とされた存在であるのです。そのような正しいプライドをわたしたちはどこで身につけることができるのか。それは、キリストが、その栄光を捨てて、人間となられた、そして、わたしたち一人一人の罪咎を身に負って十字架で死んで下さったというキリストの十字架を見上げることを通して、わたしたちは、そのような正しいプライドを自分のものとすることができるのです(20)。

(前川隆一牧師)