実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、        エフェソ2章14節

 
「キリストにおいて一つとなる」と表題のつけられているところです。

キリストは平和
第一、キリストがわたしたちの平和となって下さったということ。14節で、「二つのものを一つにし」とありますが、これは、具体的には、ユダヤ人と異邦人ということを意味しています。少し話を広げると、今日、いろいろな民族間の対立ということを目の当たりにします。そのような人と人との関係の前に、わたしたちは、神様とわたしという関係が正される必要がある。そして、その神との平和をもたらすお方として来て下さったお方、それが、イエス・キリストであるということです。

新しく造られた者
第一、キリストはわたしたちの平和となって下さったということ。そのことを土台として、わたしたちは、第二に、人と人との関係の平和へと前進して行くことができるということです。けれども、そのためのたいせつなステップがあります。そのために、キリストにあって「新しい人に造られる」ということがたいせつです(15)。それは、何より、祈る者とされるということです。いつの間にか、「あの人のために祈ろう。あの人のためにこういうことをしてあげよう」という思いが起こされている。それこそ、聖霊のお働きであり、新しい者とされたしるしです。

礼拝者とされる
わたしたちが人と人との関係の平和へと前進して行くためにもう一つたいせつなこと、それは、礼拝者とされるということです。わたしたちは、自分を正しく愛せず、人を正しく愛せない者でした。そういう意味で、わたしたちも、寄留者でした(19)。そのわたしたちが、みことばという確かな土台の上に立つ者とされました(20)。そして、「この建物全体は組み合わされて成長し」とあります。石が組み合わされるためには、削られるという工程を経ます。わたしたちも、みことばに聴いて従うという繰り返しを通して、削られる必要があるのです。そして、そのことを経験する、それが、礼拝のときなのです。

(前川隆一牧師)