ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。          ヘブライ2章9節

「大いなる救い」、そして、「救いの創始者」と表題がつけられているところです。

大いなる救い
C・S・ルイスは、「わたしたち自身を家にたとえるなら、その修繕を神様にお願いする、それが、救いではない」という意味のことを言いました。「神様がなさること、それは、古い家の修繕ではない。わたしたちの家を全く新しくして下さることである。どのように新しくして下さるのか、それは、わたしたちの家を宮殿にして下さる。なぜか、神様がお住まいになりたいからである」。それは、確かに、聖書もそう言っていることです(Ⅱコリント5:17、Ⅰコリント6:19~20)。神様がなさること、それは、古い家の修繕ではない。わたしたちの家を全く新しくして下さることである。わたしたちの家を宮殿にして下さることである。それは、神様がお住まいになりたいからである。それが、神の救いということです。神の「大いなる救い」ということです(3)。

救いを見る
第二に、その救いをもたらして下さるキリストを見る。見つめ続けるということ、それは、どのようなことなのでしょうか。9節の後半、「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」、と言われています。キリストの十字架の死、それは、神の恵みによって、すべての人のために与えられた賜物なのです、ということです。けれども、興味深いことですが、この「神の恵みによって」という部分、「神抜きで」「神様無しで」ということになっている写本が多数あります。キリストが経験された十字架のできごと、それは、まさに、神様抜きで経験されたお苦しみでした。父なる神様に捨てられるという経験でした。このキリストにあって、このキリストのゆえに、わたしたちは、決して神様に捨てられることはないのです。キリストの十字架を見つめる、見つめ続ける、そのことを通して、最も深いところで、支えられ、立ち上がらせていただく経験をすることができるのです。

(前川隆一牧師)