弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」            マルコによる福音書102627
 
讃美歌「ああ主のひとみ」は、この金持ちの男性へのイエス様の愛のまなざしを歌います。
 

永遠の命を受け継ぐための行いとは
イエス様にひざまずいて尋ねた男の人は、十戒等の神の戒めは子供の時から守ってきたものの、永遠の命を受け継ぐにふさわしい正しい行いには何かが足りないと感じる求道者でした。「神お一人の他に善い者は誰もいない」と言われるイエス様は、人との比較ではなく、神様の目に善い事とは何かを問題にされました。さらに「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」という厳しいお言葉が、多くの財産を持つこの人の心を刺し通し、彼は悲しんで立ち去りました。彼にとって最も困難な、豊かな財産を全て手放すという行いを、イエス様は「彼を見つめ、慈しんで」、彼を愛するがゆえに言われたのです。それは、善い事を行うことによって永遠の命を得ようとするあり方の誤りを示すためでした。

 
神の国の門を通って救われる
生まれながら罪人である私たちが自分の行いによって神様の目に正しい人となることは、らくだが針の穴を通れないのと同様に不可能です。神の国に入るためには誰でも、イエス様という門を通らなければなりません(ヨハネ10:9、14:6)。それは、この男の人にとって「善い先生」であったイエス様を、「私の主」と信じて告白することです。律法が「あなたに欠けていることがある」と責める時、自分の財産や能力を頼みとするプライドは打ち砕かれ、絶望します。御前から去るこの人をイエス様は惜しまれ、「何と難しいことか」と繰り返されています。しかし、そこで自分の罪と無力さを認め、ただイエス様に依り頼む人に、神の国の門が開かれています。人となられた神の子イエス様は、どうしても善い行いが出来ない私たちの弱さを裁かず、愛のまなざしで包み、悔い改めへと招かれます。

 
ただ神の恵みによって
お金、仕事、楽しみ、愛する人…人が頼るものは多く、イエス様に従うことは難しいと思える時も、神様は人を狭い門から救うことがお出来になります。信仰生活もまた自力ではなく神様の恵みによるものです。私たちはイエス様の愛の導きにお答えし、イエス様から頂いた永遠の真の命に生かされて、信仰生活を歩んでまいりましょう。

(松田朋子神学生)