「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」 ヘブライ人への手紙4章15~16節
ある人は、「ヘブライ人への手紙の中心聖句はこれである」と言う4章15~16節を含む箇所です。
みことばに留まるように
今日の箇所では、ヨシュアという人の名前が出て来ます。そのヨシュアに導かれたイスラエルの民の姿を鏡としてこのように歩め、という二つのことが今日の箇所で教えられています。一つは、神のことば、みことばに留まるように。留まり続けるように、ということです。では、モーセに、そして、ヨシュアに導かれたイスラエルの民は、みことばに留まったのでしょうか。答えは、残念ながら、ノーでした。
みことばによって変えられるように
もう一つのこと、それは、そのみことばによって変えられて行くように、ということです。40年を経て、新しい世代となり、また、荒野での厳しい訓練を受けて、イスラエルは、外面的にはたくましい民となりました。けれども、本質的には変わっていない。かたくなな民であるということをヨシュアは、見通していました。
大祭司イエス
そのようなイスラエルの人々の姿を鏡として、神のことば、みことばに留まるように。みことばに留まり続けるように。また、みことばによって変えられて行くように。それが、今日の箇所を通して語られていることがらです。ところで、イスラエルの人々と同じように、みことばからそれてしまう。また、みことばの前にかたくなになってしまう。それが、わたしたちではないでしょうか。そのわたしたちに、ヘブライ人への手紙の著者が指し示している、それが、大祭司イエスということです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(15)。大祭司イエス・キリスト。この方にあって、わたしたちは、みことばに身を委ねることを喜ぶ者とされるのです。みことばによって変えられることを喜ぶ者とされるのです。
(前川隆一牧師)