キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。 ガラテヤ3章13節
福音書は、イエス様がいいちじくの木を呪われたこと、そして、翌朝そのいちじくの木が枯れていたということ。そして、その二つのできごとにはさまれて記されているイエス様による宮きよめのできごとです。
枯れたいちじくの木
イエス様が呪われたいちじくの木、それは、実がまだ硬いいちじくの木というより、実そのものが、まだ、ついていないいちじくの木でした。八つ当たり以外の何ものでもない、どうしてこんなことが記されているのかと不思議に思う聖書の箇所の一つです。
宮きよめ
その鍵、それは、イエス様がいちじくの木を呪われたということと、実際に翌朝枯れていたということとの間にはさまれているイエス様による宮きよめのできごとにありました。イエス様がいちじくの木を呪われたというできごと、それは、実は、外目には、にぎやかに見える神殿の光景、けれども、その内実はというと実を結んでいないユダヤ人たちの礼拝、それは、やがて裁かれ、滅ぼされなければならないということを警告された目に見える仕方での預言、それが、イエス様がいちじくの木を呪われたというできごとでした。
呪いの木
それにしても、とわたしたちは思います。実のなる季節でなかったにもかかわらず、「実がないから」と言って呪われて枯れてしまう。どう考えても不条理なできごとです。けれども、いちじくの木が呪われて枯れたできごとより、もっと不条理なできごとが起こったのです。イエス様は、いちじくの木を呪うことを通して、ユダヤ人に警告をお与えになりました。けれども、その裁きが下った、それは、十字架という木の上にその裁きは下りました(ガラテヤ3章13節)。この十字架に接ぎ木されて、わたしたちは、ほんとうの意味で、実を結んで行くことができるのです。
(前川隆一牧師)