また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも多くの罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いを待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。 ヘブライ9章27~28節
福音書は、「やもめの献金」(マルコ12章41~44節)、使徒書は、「罪を贖う唯一のいけにえ」と表題のつけられている部分です(ヘブライ9章24~28節)。
一筋の信仰
イエス様は、律法学者たちの見せかけの善行、祈り、宗教行為を激しく非難されました。それに対して、このやもめの一筋の信仰をおほめになりました。イエス様は、完全な従順をもって、十字架へとまっすぐに顔を向けておられました。だからこそ、このやもめの一筋の信仰に共鳴されたのでした。逆に言うなら、このやもめの信仰、それは、イエス様の十字架のできごとを指し示しているできごとでした。
人への愛
やもめは、2レプトンを献げました。それは、ごくわずかな献げ物でした。けれども、それは、彼女にとって、持てるものすべてでした。このやもめの献げ物、信仰について、もう一つの面について考えてみたいと思います。それは、彼女は、狂信的な信仰をもっていて、家族を顧みない人だったのか、ということです。そうであったとしたら、イエス様は、決してこの女性の献金する姿をおほめになることはなかったでしょう。いつもいつも生活費全部を献げていたのでは、生活はなりたたなかったでしょう。たまたま、このとき、示されて、彼女はレプトン銅貨2枚を献げた。でも、そこに、彼女の信仰が表されていたということでした。ほんとうの神への愛、それは、人に対する愛としても現れて来るものです。
やもめの信仰、それは、一筋の心、一筋の信仰でした。そして、やもめの信仰、それは、イエス様の十字架にまで至る献身を指し示すものでした。逆に言うなら、イエス様の十字架の愛、それは、このやもめの信仰に表されているような一筋の信仰をわたしたちに与えて下さるということです。また、ほんとうの神への愛、それは、人に対する愛としても現れて来るものです。イエス様の十字架の愛、それは、一筋の信仰とともに、人に対する愛をも与えて下さる愛であるのです。
(前川隆一牧師)