イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 マタイ4章4節
イエス様が荒れ野でお受けになった誘惑のできごとです。
ボタンのかけ違い
イエス様が、荒野の誘惑を経験して下さった、それは、最初の人間であるアダムが、与えられた自由を乱用し、罪を犯してしまった、そのボタンのかけ違いを正すために、もう一度、第二のアダムとして、神様との関係を歩み直して下さるできごとでした。4章13節を見ると、「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と記されています。この荒れ野の誘惑、サタンとの熾烈な戦いは、これで終わりではありませんでした。それは、あの十字架のできごとまで続いたのでした。
救いとはないか
荒れ野の誘惑のできごと、それは、イエス様が独自に、特別に経験された誘惑でした。とともに、この荒野の試みのできごと、それは、イエス様がわたしたちにもたらしてくださった救い、わたしたちが、イエス様から受けた救いというものがどのような救いであったのかということをよく表しているできごとです。わたしたちの救いとは何か。イエス様がわたしたちにもたらして下さった救いとは何か。それは、罪の赦しということです。永遠の命ということです。その赦しと命に与るとき、わたしたちは、さまざまな試練の中にあっても、それを乗り越えていく力を経験することができるのです。その赦しと命に与るとき、死のときにも失われない平安を経験することができるのです。
目標
十字架と復活を通して、キリストは、すべてを成し遂げて下さったのです。ですから、わたしたちは、自分の救いのために、律法を目標とする必要はないのです。そういう意味では、キリストは、わたしたちのために律法を終わらせて下さいました。とともに、救われた者として、律法をわたしの目標として行くようにと、わたしたちは召されているのです(ローマ10:4)。
(前川隆一牧師)