彼らをわたしの神に仕える王、また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します。 ヨハネの黙示録5章10節
福音書は、エルサレムにおいて、復活の主がご自身を現わされたこと、黙示録は、子なるキリストに対する礼拝ということが記されている箇所です。
「ユダ族から出た獅子」なるお方にして「屠られた小羊」なるお方
わたしたちの祈り、また、礼拝は、天の礼拝につながっています。では、どのような通路を通して、天の礼拝につながるような祈り、また、礼拝を献げて行くことができるのでしょうか。まず、黙示録の5章の冒頭において、「ユダ族から出た獅子」なるお方にして「屠られた小羊」なるお方ということが言われています(5~6)。「ユダ族から出た獅子」なるお方、しかも、「屠られた小羊」なるお方が、さまざまな矛盾を経験する、痛み、悲しみを経験するわたしたちを慰め、励まし、平安を与えて下さいます。「ユダ族から出た獅子」なるお方、しかも、「屠られた小羊」なるお方によって、わたしたちは、天の礼拝につながる祈りを、また、礼拝を献げることができるのです。
栄光の体、しかも、地上の生涯を歩まれたときと連続性をもったお体
第二に福音書です。イエス様は、栄光の体、しかも、地上の生涯を歩まれたときと連続性をもったお体に復活されました。わたしたちがやがて与る復活の体、それも、何らかの意味で、地上で生きた肉体の体と連続性をもった体です。信仰をもって生きる、それは、死んでしまったらおしまい。生きているうちに、飲んで、食べて、楽しめ、という生き方ではありません。逆に、この地上の生を否定する生き方ということでもありません。わたしたちは、自分の救いのためにそうするのではなく、救われた者として、神の栄光のために何を食べるか、何を飲むか、どのように生活するかということをたいせつにするのです(Ⅰコリント10章31節)。
王にして祭司
第三に、神様が、イエス・キリストを信じるわたしたちを王にして、しかも、祭司として下さったが故に、わたしたちは、天の礼拝につながる祈りを、また、礼拝を献げることができるのです(黙示録5章10節)。
(前川隆一牧師)