ルカ15章にある3つの譬え話、失われた羊、銀貨、放蕩息子の話の共通点は、あるべき場所にいない、迷子になっているという事です。信仰は、困った事があり持ちました、というものでなく、人間があるべき場所から離れたのに気づき戻ったという事に過ぎず、ごくごく当たり前、自然な事です。
11節からは、いわゆる「放蕩息子」で知られる有名な箇所です。登場人物は、父親、弟息子、そして兄息子。まず弟息子。早々に財産をもらい受け、ついに自由になった、俺の天下だ、意気揚々です。自分の物を自分で好きにして誰に文句があろうか? 少し待って下さい。本当に自分のものでしょうか?
劇場にいるとします。幕が開きました。空の舞台に劇の作者登場。これが、聖書の冒頭の神物語の始まりです。初めに神あれり!人生の大原則!では人間は?天地創造の最後になり、やっと登場します。そうです。私達は神様の物語の登場人物に過ぎません。しかし、自分の人生は自分で書き上げたいと主張する声が溢れています。とれもしない神の主導権を取ろうとする、愚かな事ですね。
俺が人生と胸を張った弟息子は、放蕩の限りを尽くし落ちぶれ果てます。罪の歯止めが利きません。スポーツ選手、芸能人、時には政治家が覚せい剤で身を持ち崩しています。罪の弱さの前に、鍛えた体、高い学歴、知性も何の役にも立ちません。高い教育、政治、福祉の力も罪の前に無力です。聖書時代も今も、人の本質はなんら変わりませんね。人は、自分の無力に早くに気付く事が肝要です。だから、我に返った息子よ、おめでとう!偽りの喜び、偽りの人生にピリオドです。そこには帰りをずっと待ちあぐねた父の姿が!失われた人間を今も探し続ける神がいます。「さあ、いなくなっていた息子が戻った、さあ宴会だ。一番よい服を着せ、手に指輪を、足に履き物を履かせよ!」一番よい服は、十字架で清められた義の衣、指輪は紛れもない息子、正当な相続人の印、履き物は、奴隷から自由になった印です。
他方の兄息子。弟への待遇に怒り心頭です。父の態度が許せない。父の心が分からない。その意味で形を変えた放蕩息子に違いないのです。真面目な人の陥りやすい罪の姿です。さて、私達は今、どこにいるでしょうか? 神様の懐でしょうか?それとも? 失われた人に向けられた神様の熱い鼓動が聞こえますように!!
(子安八重子師)