そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 
                           ルカ15章5~6節

 
「見失った羊」のたとえと「無くした銀貨」のたとえとです。

天における喜び
この二つのたとえ話に共通している、それは、なくしたものを捜し回る人のお話であるということです。第二に、必死になって捜し回り、ついに見つけ出したときの喜びということです。そして、第三に、その喜びを、「いっしょに喜んで下さい」と言って、友だちや近所の人々に呼びかけたということです。そして、この三つの中で、やはりその中心、それは、天における喜びということです。わたしという存在、それは、神様によって捜し求められた存在なのです。そして、神様によって見いだされ、大いなる喜びをもって迎えられた存在であるということです。

見出された者
神様に見出された者ということで言えば、先週学んだフィレモンへの手紙に出て来るオネシモもまた、失われていたのが見い出された人でした。また、オネシモにフィレモンへの手紙を書いて持たせたパウロもまた、失われていたのが見い出される経験をした人でした。そして、それはまた、わたしたちもかつてした経験ことである、ということが言えます。

楽しく我が世を おくらまほし?
ところで、「見失った羊」のたとえを題材とした讃美歌があります。その四節で、「楽しく我が世を おくらまほし」と歌われています。クリスチャンとなったわたしたちの人生、それは、何の波風もなく、順風満帆な生涯なのでしょうか。そんなことはありません。逆風があり、摩擦があり、戦いがあります。そして、何よりも、自分の内にある罪により、絶えず、神様の祝福から離れよう離れようとする力と戦い続けなければなりません。だからこそ、わたしたちは、自分という存在が、神様によって捜し求められた存在である。そして、神様によって見いだされ、大いなる喜びをもって迎えられた存在であるという原点に立ち返ることが必要なのです。そして、そこから、また、魂を追い求めて行くようにと召されているのです。

(前川隆一牧師)