主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
詩編95編1節
礼拝への招きの詩編として知られている詩編95編です。
喜びをもって
詩編95編は、前半部分と後半部分に分かれており、前半は礼拝への招き、後半は、警告を含んだ厳しい招きという内容になっています。そして、前半の部分も、くわしく見て行くと二つの部分に分かれているといます。それは、喜びをもって主のもとへ来るようにという招きと、へりくだった思いをもって主のもとへ来るようにという招きということです。まず、前半の前半部分ですが、「喜び」それは、礼拝ということ、神様を礼拝するということにおいて、最もふさわしいことである、ということが語られています。
へりくだった思いをもって
もう一つ、へりくだった思いを持って主のもとへ来るように、ということが語られています。自らを高くする、その時点で、わたしたちは、神様の恵みを締め出してしまうのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」、わたしたちは、へりくだった思いをもって主の前に出るようにと招かれています。
警告のメッセージ
そのような前半の勧めを受けて、後半、一転して、警告を含んだ厳しい勧めのメッセージが語られています。そして、この95編の最後は、救いというものがありません。わたしたちは、この詩編95編の最後をどのように受け取るようにと招かれているのでしょうか。詩編95編。それだけを読むと、希望のない終わり方をしています。裁きで終わっています。けれども、この詩編95編は、詩編99編と対になっています。99編の最後のところを見ると、赦しということが語られています(8~9)。神様の裁き、それは、決して裁きが最終的な目的ではなく、そのことを通して、悔い改めに導き、赦しを与えるためのものであるのです。わたしたちは、悔い改めて、原点に立ち返り、立ち返りして、喜びをもって、また、へりくだった思いをもって神様を礼拝する者となるようにと招かれているのです。
(前川隆一牧師)