知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。 詩編100編3節
表題が「賛歌。感謝のために」となっていますが、まさに、99編までの詩編を集約するかのような雄大な賛美と礼拝への招きの詩編です。
主を知る
主を賛美し、主を礼拝する者とされた「喜び」、「平安」ということがうたわれている、それが詩編100編です。けれども、詩編100編の中心は、別のところにあります。それは、3節の前半です。「主がわたしたちを造られた」ということ、そして、主なる神様とわたしたちとはどのような関係にあるのか。そのことを知る。それが、わたしたちの賛美の、また、礼拝の中心であるということです。
知ることのむずかしさ
そのような詩編100編に対して、この「知る」ことのむずかしさを教えている、それが今日の福音書です。今日の箇所の一つ前の、マタイによる福音書9章34節を見ると、「しかし、ファリサイ派の人々は、『あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言った。」そう記されています。「知る」ということのむずかしさ、それは、「知る」ということが、高ぶり、高慢へとつながって行くということです。ファリサイの人々、彼らは、イエスがみわざを行っているとしても、それは、「悪霊の頭の力で行っている」そう決めつけたということです。
主の憐れみ
それに対して、イエス様は、人々が、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」ました。この「憐れむ」ということばは、「はらわた」「内臓」という意味のことばが使われています。イエス様は、「はらわたがよじれるほどの同情を覚えられた」のでした。そして、このイエス様の同情、共感、それが、イエス様を十字架へと向かわせたのでした。イエス・キリストの十字架を通して、また、このイエス様の憐れみに触れて、わたしたちは、ほんとうの知識をもつことができるのです。そして、そのことを通して、ほんとうの喜びと平安に生きる者とされるのです。
(前川隆一牧師)