慈しみとまことは出会い 正義と平和は口づけし まことは地から萌えいで 正義は天から注がれます。 詩編85:11~12
バビロン捕囚から解放されて、イスラエル人たちが故国イスラエルに帰って来たときの心境がうたわれている詩編85編です。
リセット
まず、2~4節までを見たいと思います。故国エルサレムに帰ることができた、それは、「主よ、あなたは御自分の地をお望みになり ヤコブの捕らわれ人を連れ帰ってくださいました」と、神様がして下さったことと受け留めています。とともに、故国帰国を果たして、有頂天になるのでなく、「故自分の民の罪を赦し 彼らの咎をすべて覆ってくださいました」と、異邦の地で、辱めを受けなければならなかった、それは、自分たちの罪故であるとわきまえています。「栄光は主のもの、恥はわがもの」という姿勢、それが、詩編85編の作者の姿勢でした。
信頼に基づいた嘆き
そのようにして歩み出したイスラエルの民。しかし、そこで彼らを待っていた、それは、荒廃した故国、そして、困窮と苦役の日々でした。そのような苦難の中における嘆きということが、5節以降うたわれているということです。それにしても、4節までの、神様に対する深い信頼の祈りと比較するとあまりにも対照的な嘆きのことばが続いています。けれども、考えてみると、4節までの深い信頼の祈りがあって、その信頼に基づいて、詩編の作者は祈っている、ということが言えます。
救いの体験
神様に対する信頼に基づいて祈り、嘆く詩編作者。けれども、そのことを通して、詩編の作者は、神がともにいて下さるという平安、救いを経験して行きます。「慈しみとまことは出会い 正義と平和は口づけし まことは地から萌えいで 正義は天から注がれます。」わたしたちも、主にあって、正しく自分の歩みをリセットして歩み出す。でも、その歩みにおいて、必ず、困難や試練にぶち当たるということを経験します。けれども、そこで、主に対する信頼に基づいて祈り、願うなら、わたしたちは、聴いて来た主を体験する者としていただくことができるのです。
(前川隆一牧師)