主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。              詩編26編1節

神様の前における誠実さということが主題である詩編26編です。

誠実に生きることのむずかしさその一
イエス様の当時のファリサイ人、律法学者と呼ばれる人々、彼らもまた、神の前に誠実に歩もうとした人々ではなかったのでしょうか。けれども、彼らは、イエス様によって退けられて行きました。何が彼らにかけていたのでしょうか。ホセア書の6章6節を見ると、「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」そう言われています。ここで、愛と訳されている、それが、誠実ということばです。ファリサイ人、律法学者、彼らには、愛と訳された誠実さが欠けていました。

誠実に生きることのむずかしさその二
また、逆に、わたしたちは、神の前に誠実に歩むということを、どこまで突き詰めていくことができるのでしょうか。わたしたちが、神の前に誠実に生きようとすればするほど、自分を責めてしまうということが起こり得ます。そんなわたしたちにとって、必要な存在、それは、わたしのことをとりなしてくれる存在ということです。詩編26編1節の「主よ、あなたの裁きを望みます」という部分、それも、実は、「私を弁護してください」そんな風に訳すことができる表現です。

神の誠実さ
神様は、わたしたちに誠実に生きることを求められます。実は、それは、神様ご自身が誠実なお方だからです(エレミヤ31章3節)。神様は誠実なお方です。そして、その誠実さが最も現れた、それが、イエス・キリストの十字架のできごとでした。十字架の愛に触れて、わたしたちは、ほんとうの意味で、自分の思いではなく、神のみこころがなることを求める者とされるのです。また、十字架で死なれた主は、三日目に復活、その後に昇天し、今、天にあって、わたしたちのことをとりなして下さっています。このキリストのとりなしを受けて、わたしたちは、正しく、神の前に誠実に生きる者とされるのです。

(前川隆一牧師)

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