イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 マルコ1章31節
イエス様がシモンのしゅうとめの病を癒されたこと、安息日が明けて、続々と連れて来られる病人や悪霊につかれた人をイエス様がいやされたこと、次の日の朝早く、イエス様は起き出して、人里離れた所で祈られたことが記されています。
仕えていただく
第一に、弟子たちは、イエス様がペトロの実家に入って行って、ペトロのしゅうとめの病を癒されたことに驚きました。イエス様にとって、解決できないほどの大きな問題というものはないのです。逆に、イエス様に持って行くほどのことはないというような小さな問題というものもないのです。まずイエス様のもとへ行く、そこから、わたしたちの信仰生活は、始まって行くのです。
仕える者となる
第二のことですが、いやされたペトロのしゅうとめが、さっそく一同をもてなしたときに、弟子たちは驚きました。考えてみると、イエス様をもてなした、イエス様に奉仕したということが、マルコによる福音書で出て来るのはこれが最初のできごとです。イエス様に最初にお仕えした、奉仕した、それは、ペトロでもヨハネでもヤコブでもなく、一人の女性、無名の女性であったということです。イエス様に仕えていただいて、仕える者となって行く。それが、信仰生活です。
聴きつつ奉仕する
第三に、弟子たちは、イエス様の「近くの他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」ということばに驚きました。イエス様は常に、父なる神様との祈りの交わりを通して、そのみこころを聴き、それに従って歩まれました。イエス様に仕えていただいて、仕える者となって行く。イエス様に奉仕していただいて、奉仕する者となって行く。けれども、それは、自分の思いで、仕え、奉仕して行く歩みではありません。わたしたちは、神様に聴きつつ奉仕し、奉仕しつつ、神様に聴く。そのような信仰生活に歩むようにと神様から招かれているということです。
(前川隆一牧師)