イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 マルコ1章13節
イエス様の洗礼(9~11)、荒野での試み(12~13)、メシアとしての第一声(4~15)です。
イエス様の洗礼によって
わたしたちは、なんとも言えないぎすぎすした現実を生きています。そのような中第一に、イエス様の洗礼によって、心にゆとりをもって生きることができます。イエス様の洗礼、それは、罪のないお方が罪人であるわたしたちと同じ立場に立って下さるというできごとでした。そのことを通して、イエス様が洗礼をお受けになったときに届いた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神様の御声は、キリストの名による洗礼を受けることによって、わたしに語られた父なる神様の御声となったのです。わたしたちは、そのことに立ち返り、神の子としての正しいプライドをもって歩むようにと召されているのです。
荒野の試みによって
第二に、わたしたちは、イエス様の荒野の誘惑によって、心にゆとりをもって歩むことができます。13節、「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」そう記されています。本来、害するもの、傷つけ、滅ぼそうとする存在である野獣といっしょにいながら、イエス様は、害をお受けにならなかった、それは、わたしたちがキリストを信じて生きるときに、経験する経験を表しているということでもあるのです(ヘブライ4章15~16節)。
詩編25編17節
今日の詩編は25編が読まれました。その17節にこうあります。「悩む心を解き放ち」ここのところ、口語訳聖書では、「わたしの心の悩みをゆるめ」と訳されています。わたしたちの「悩む心を解き放っ」て下さるお方、「わたしの心の悩みをゆるめ」て下さるお方、そのお方こそ、わたしたちのために洗礼を受け、わたしたちのために荒野の誘惑を受けて下さった主イエス・キリストであるのです。
(前川隆一牧師)