「ところが、女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。』」                  マルコ7章28節

「シリア・フェニキアの女の信仰」、「耳が聞こえず舌の回らない人をいやす」、そう表題のつけられている箇所です。

よい知らせ

「シリア・フェニキアの女の信仰」と表題のつけられている部分、それは、聖書学者によって、論争物語の中に分類されているということです。けれども、感覚としては、論争物語というと、ちょっと違うような気がします。それは、この女性はイエス様を説得し、イエス様はこの女性に説き伏せられたというのとはちょっと違うからです。そうではなく、この女性のことばの中にある何かが、イエス様の心を開いて行ったのでした。では、何がイエス様の心を開いて行ったのか。それは、このシリア・フェニキアの女性の願いが、主のみこころにかなう願いであったということです。シリア・フェニキアの女性は、異邦人でした。福音からは、遠い存在でした。しかも、自分の娘が悪霊に支配され、引きずり回されているような、そんな日々を送っていました。そんなどん底の状況の中から、彼女がイエス様のもとへやって来た。それは、彼女が、「よい知らせ」、福音の訪れを聞いたからでした。

すべて、すばらしい

聖書は、わたしたち人間の存在をどのように教えているのでしょうか。もともと、神様がこの世界宇宙をお造りになったとき、「よかった」とおっしゃったのでした(創世記1章31節)。ところが、その世界に罪が入り込むことを通して、すべてのものは破壊されてしまったのでした。けれども、神様によってよきものとして造られたその残存は、残っているのです。そして、そのわたしたちが、イエス・キリストと出会うことを通して、もともと神様によってそのように造られた「よきもの」「すばらしいもの」が回復するということを経験させていただくのです。神の声を聴く者、そして、神に向かって賛美する者。また、人のことばを聴き、人を生かすことばを語る者と、わたしたちはしていただくのです(マルコ7章37節)。

(前川隆一牧師)