わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 ヨハネ14章6節
イエス様がピラトによって尋問をお受けになった場面です。
真理そのものであるお方に直面したピラト
ピラトは、真理そのものであるお方を裁くことを通して、自らが裁かれる者となりました。逆に、わたしたちは、真理そのものであるお方を信じることを通して、終わりの裁きにおいて、主に弁護していただくことができるのです。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりなく、全世界の罪を償ういけにえです」(ヨハネ第一の手紙2章1~2節)。
聴く
そのことを土台として、今日、わたしたちは、このピラトの過ちをわたしたちが犯すことがないように、自ら、戒めたいと思います。それは、真理のみことばを聴くということです。ピラトが、人の声を恐れる恐れによって、「真理とは何か」という問いを封印してしまったことを反面教師とし、わたしたちは、真理のみことばを聴き、聴き続ける者とならせていただきたいと思います。
留まる
もう一つのこと、それは、ピラトを反面教師とし、わたしたちは、真理に留まり、留まり続けることが必要です。わたしたちのまわりには、いろいろな思いがけないことが起こります。それに対して、わたしたちは、「どうしてですか」と正直に神様に訴えて行ってよいのです。けれども、その思いがけないことごとを通して、神様がわたしに何を語りかけようとしておられるのか。何をなそうとしておられるのか。そのことをとどまって、思い巡らすことがたいせつなのです。なぜなら、わたしたちの信じる神様は、その思いがけないことにまさって力強いお方だからです。いや、その思いがけないことが起こって落ち込んでいるそのわたしとともにいて下さるお方だかです。いや、わたしたちが落ち込んでしまったその底の底のどん底にまで落ち込んで、十字架で死んで下さったお方だからです。
(前川隆一牧師)