その憐みは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。 ルカ1章50節
マリアが救い主の母とされたということを賛美しているマリアの賛歌の箇所です。
聖霊に満たされて
このマリアの賛歌に表現されている喜び、信仰、それは、わたしたちもまた、ともに喜び、心を合わせることができる内容でもあります。それは第一に、41節、「聖霊に満たされて」ということが言われていますマリアと、エリサベト、この二人が出会うことを通して、聖霊による共鳴を経験し、その中で、喜びにあふれてうたった、それが、マリアの賛歌でした。イエス・キリスト救い主と信じるわたしたちにも聖霊が与えられています。ですから、聖霊によって、わたしたちは、このマリアの賛歌に心を合わせ、信仰を合わせることができるのです。
主の憐れみ
第二のこと。では、何に対して、マリアは、喜びうたったのかということです。50節。「その憐みは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」そううたわれています。憐みの主、主の憐れみに対して、マリアは喜びうたったということです。日本語で、「憐れみ」というとき、感情によってあわれんだり、憐れまなかったりと、非常に不安定な印象を受けます。けれども、ここで言われている憐みの主、主の憐れみということ、それは、「真実」とか、「誠実」とかいう意味にも訳すことができることばが使われています。神の真実、神の誠実を経験した者として、マリアは、喜びうたったのでした。
革命の歌
第三に、51~53節に注目したいと思います。この「マリアの賛歌」のことを、ある人は、「革命のうた」と言いました。確かに、「権力のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ」といったことが、イエス様によって起こりました。そのことに、民衆は喜び、熱狂して行きました。けれども、イエス様が目指しておられた革命は、世の革命ではなく、わたしたちの心にもたらされる革命でした。権力のない者が権力を握る、力のない者が力を得る、身分の低い者が身分を得る。そうしたことではなく、そのようなすべてのことから解き放たれた者とする。それが、イエス様の革命でした。
(前川隆一牧師)