エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 ルカ13章34節
エルサレムのために嘆かれたイエス様の嘆きです。
あなたの翼を避けどころとして隠れます
今日読まれた詩編は、「あなたの翼を避けどころとして隠れます」とうたわれている詩編61編でした。「あなたの翼を避けどころとして隠れます」、あるいは、「あなたの翼を避けどころとして隠れさせて下さい。」それは、イエス様の当時の人々にとっても、旧約の詩編の作者の信仰に心を合わせて、祈り、願ったことでした。それにもかかわらず、どうして、イエス様は、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」そう嘆かなければならなかったのでしょうか。
ヘロデ
今日の福音書の最初に、ヘロデという名前が出て来ます。このヘロデは、イエス様がお生まれになったときに、ベツレヘムの二歳以下の男子を皆殺しにさせた、いわゆるヘロデ大王の息子であるヘロデ・アンティパスです。彼は、「静謐を愛する人」でした。静けさを愛する人でした。けれども、それは、自分の思いが満たされることにおける静けさでした。そして、自分の思いが満たされることを妨げようとする声があるとすれば、それを排除しようとする静けさでした。ヘロデは、自分の思いが満たされることだけを願い、それを妨げようとする声を排除しました。そのことを通して、イエス様の招きを退けてしまったのでした。そして、このヘロデと同じ根をわたしたちももっているのです。
自分の道を進まなければならない
そのような脅かし、殺意のある中で、イエス様は、父なる神様のみこころのあるところへと歩み、歩み続けて行かれました。いや、「そのような脅かし、殺意中へと」歩み、歩み続けて行かれました。それは、十字架へと続くイエス様の歩みでした。キリストを信じる、それは、このキリストの十字架の愛の中で、わたしたちが握りしめていたものを手放し、神様のみこころのあるところへと歩み出して行く歩みであるのです。そして、そのとき、わたしたちは、ほんとうの静けさ、平安を経験することができるのです。
(前川隆一牧師)