聖霊は、信仰に必要なすべてのことを教え、行為に導きます。私たちは聖書の言葉に聴き、祈りつつ思い巡らせ、決断し行動します。

ルターも祈りとみ言葉の黙想、試練がキリスト者の生活であると確信しました。

聖霊はみ言葉を生活と結びつけ、効果を発揮させてくださいます。御子イエスは神の定めによって、死の力を持つこの世の君と対決し、ご自分の死によって死を滅ぼされました。これが私たちに平安が与えられる根拠です。

ヨハネは黙示録において、「玉座に座っておられる方」の言葉を福音書と同様に聴いて記します。天の輝きを反映する「新しいエルサレム」を見、全能の神と神の子羊とが都の神殿であることに気づきました。

神殿や会堂は神の臨在そのものではありません。神の臨在を疑わせる苦難は、迫害に耐えて礼拝を続けるキリスト者の身に及びます。神の都には神と子羊の座から「命の川」が流れ、両岸の命の木は実をならせ、その葉は民の病を癒します。「もはや、呪われるものは何一つない。‥僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。‥神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治する」(22:3~5)将来のキリスト教会の姿です。今、これを先取りする礼拝が求められています。

聖書最後の「然り、わたしはすぐに来る。」は、主の再臨のお約束です。「アーメン、主イエスよ、来てください。」この言葉が私たちの祈りとなりますように。

(池上安師)