その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。 ヨハネ16章8節
イエス様が十字架につけられる前の晩、弟子たちに語られた長い説教の最後に近い部分です。
平安
第一に、イエス様が与えようとしておられる平安とは、どのような平安なのでしょうか。世が追い求める平安、それは、努力し、取り込み、積み上げることを通して、得ようとする平安です。それに対して、イエス様が与えようとしておられる平安、それは、手放し、信頼し、明け渡すことを通して得られる平安です。
何をして下さったか
では第二に、その平安を与えるために、イエス様は何をして下さったのでしょうか。そのことが記されている。それが、ヨハネ16章8~11節です。その中心、それは、10節です。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」、あなたがた、すなわち、弟子たちがイエス様を見なくなる。イエス様が、弟子たちのもとを去って行かれる。それでは、イエス様はどこへ行かれたのか。それは、カルバリの丘です。十字架です。人々は、イエス様が十字架につけられたとき、呪われた者と思いました。けれども、それは、自分自身の罪のためではなく、罪のないお方が、わたしたち一人ひとりの身代わりとして、呪いとなって下さったのでした。そのキリストをわたしの救い主と信じる信仰によって、罪赦され、神の子とし、永遠の命を受け継ぐ救いの道を神様は開いて下さったのでした。ここに、神の義が表されているということです。
ためになる
では、第三に、どうしてイエス様が去って行くことが、「ためになる」「益になる」のでしょうか(7)。それは、イエス様が去って行くことを通して、聖霊が与えられるからです。聖霊によって、わたしたちは、イエス様が何のためにお出でになり、何を目指しておられ、何をわたしたちに与えようとしておられるのかということを理解することができるのです。そして、イエス様が与えようとしておられる真の平安を自分のものとすることができるのです(Ⅰコリント2章14節)。
(前川隆一牧師)