人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 ローマ3章23~24節
「金持ちとラザロ」という表題のつけられているイエス様のたとえ話です。
モーセと預言者がいる
今日の箇所には、急所となる表現が三つあります。その一つは、29節です。このアブラハムのことばを原文に忠実に訳すと、「お前たちの兄弟たちにはモーセと預言者がある」という風になります。このたとえ話、それは、直接的には、ファリサイ人や律法学者、当時の宗教的指導者に対して語られたたとえ話でした。律法を守り行うことによって、救われると教えているあなたがたが、それを無にしているではないか。律法により、神のことばに聴き従うことによって、救われるのではない。そうイエス様がお教えになっておられるたとえ話ということです。
ラザロ
では、イエス様は、貧しい人生を歩んだ人、その人が、天国に迎えていただけるということを教えようとしておられるのでしょうか。そうではありません。第二の急所、それは、「ラザロ」という名前です。それは、「神の助けなくして、生き得ぬ者」という意味の名前です。わたしたち一人ひとりに対して、「神の助けなくして、生き得ぬ者」そのような自覚を持つ者となってほしい。そう願っておられるのです。
遊び暮らしていた
では最後に、この金持ち、彼はどうして神の祝福から締め出されてしまったのでしょうか。19節の「遊び暮らしていた」というところ、ある人は、「彼は、毎日、お祭り騒ぎをしていた」そう訳しました。お祭り騒ぎとは、ただただ、今の喜びに浸るということです。この金持ちは、そのような陶酔の中で生きていました。わたしたちも、気をつけていないと、さまざまなことで心がいっぱいになってしまいます。心の目、霊の目を開いていただいて、キリストの十字架の救いを見上げる。そのことを通して、「神の助けなくして、生き得ぬ者」という自分自身の存在を自覚することができるのです。そして、義務ではなく、愛をもって、主のみことばに聴いて従う者としていただくことができるのです。
(前川隆一牧師)