言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は、低くされ、へりくだる者は高められる。 ルカ18章14節
「フアリサイ派の人と徴税人のたとえ」です。
ファリサイ派の人
フアリサイ派の人、彼は、感謝しました。けれども、何に感謝するかがたいせつです。ある人が、「立って」ということばについて、こんな風に解説しました。それは、ちょうど動物園で、孔雀が羽をいっぱいに広げて、「ドッドッドッド」と立つ。まさにああいう立ち方を表すことばである。ファリサイ派の人は、祈りの冒頭、感謝しました。けれども、それは、神の恵みに感謝するというより、他の人との比較による自己陶酔であり、自慢でしかありませんでした。その点で、このフアリサイ派の人とエステル記に出て来るワシュティという人とは重なるものがあります。
徴税人
ファリサイの人とワシュティとが重なるとすれば、徴税人に重なる。それは、エステルということになります。この徴税人とエステルとが、どこがどう重なるのか。それは、14節、「言っておくが、義とされて帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われています。徴税人は、義と「される」という経験をしたのです。エステルもまた、この徴税人と同じく、「される」経験、神様にしていただく経験をした人でした。
された謙遜
ある人が、こんなことを言いました。「なった傲慢、された謙遜。」わたしたちも、「された謙遜」に歩むようにと神様から招かれています。そして、そのようにしていただく、それが、この礼拝のときなのです。では、そのようにしていただくために、わたしたちの方は何をすべきなのでしょうか。徴税人は、一言、「罪人のわたしを憐れんで下さい」と言いました。わたしの罪の償いとして命を献げて下さったイエス・キリストを見上げる。イエス・キリストを通して差し出されている救いを受け取る。それが、わたしたちに求められていることがらなのです。
(前川隆一牧師)