そこで、焼いた魚を差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
ルカ24章47~48節
エルサレムに留まっていた弟子たちの真ん中に、復活の主がお姿を現された場面です。
日常生活の真ん中に
第一に、イエス様が、弟子たちの前で、焼いた魚を食べられたということ。それは、復活のイエス様が、弟子たちの日常生活の真ん中にお姿を現されたということです。そして、復活の主は、わたしたちの日常の生活の真ん中にお姿を現して下さるということです。では、わたしたちの日常とは何を意味しているのでしょうか。それは、自分さえよければという罪の現実、それが、わたしたちの日常ということです。そのわたしたちの真ん中にお立ちになり、罪を示し、悔い改めさせ、愛し合い、仕え合う者として下さる。それが、復活の主が、わたしたちにして下さることがらです。
固い食物
第二のこと。ヘブライ人への手紙に、固い食物ということが言われています(ヘブライ5章12~14節)。イエス様は、魚の肉をよく嚙んで、咀嚼して食べられたと思われます。同じように、わたしたちは、霊的にも、固い食物をよく噛んで、咀嚼して食べるようにと召されているのです。また、固い食物をよく噛んで、咀嚼して食べるわたしたちの日常に、復活の主はともにいて下さるのです。では、わたしたちにとっての固い食物とは何を意味しているのでしょうか。それは、信仰の応用問題ということです。「主の霊によって」、わたしたちは、神様との霊の交わりの中で、何が神様のみこころであり、神様の喜ばれることであるかを聞き、聞き従って行くことが求められています。また、固い食持ちが応用問題というとき、応用問題、それは、基礎的な問題の土台の上に応用問題があるということをわたしたちは忘れてはなりません。
最後のときにも
第三に、わたしたちも、やがて固い食物を食べられない日がやって来ます。その最後のときにも主はともにいて下さる。そのことを覚えたいと思います。「同じように、わたしはあなたの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46章4節)。
(前川隆一牧師)