マタイ4:1~11

小説家の三浦綾子さんは「細川ガラシャ夫人」の「終わりに」と題した一文で「真に人間として生きるという事は、実に大変な事なのだ」と記しています。私も同感です。この苦しみ多い私たちの世に、天地創造の神は御子を送られ、その彼は公の生涯の初めに、ユダヤの荒野で40日間の断食、苦悶の中に悪魔の試みを受けられました。悪魔は誘います「救いはパンそのもの。さらに世を与える。」しかし、悪魔は完全に退けられました。この悪魔への勝利は、確かに彼が神の救と命を世にもたらした根拠でした。

私たちにとって、生きづらさを感じる時、問題は何も助けの見えない闇ではないでしょうか。時に人は人間関係などの「荒れ野」に置かれることがあります。荒い岩のような暴言、冷たい石のような暴力、謀略のほか何一つない境遇です。その時、悪魔が近づきます。「見よ、ストレス。孤独と疲れのほか、恵みなど何一つない所へお前は投げ出された。一体何が信仰、救いだ。」それはあなたへの理解や共感に聞こえないでしょうか。なぜ悪魔の声なのでしょうか。当時、外国の支配に苦しんだイスラエルは、この声に耳を傾けました。そして武器をとり、返ってAD70年に国さえも壊滅しました。

しかし、キリストはその荒れ野で告げました。「退けサタン。あなたの神である主を拝み、ただ主にのみ仕えよ。」と。悪魔に欺かれませんでした。世界の所有者はそれを造り治める神です。今、荒れ野であっても神のみ旨なら「髪の毛一筋も落ちる事はない。」彼は悪魔に勝利されました。しかし、神はその完全な方をあの十字架にかけられました。人々の罪を彼が負い、全く赦し、恵みによって彼の勝利と永遠の命を人々に与えるためでした。それが私たちが受けた福音であり証です。ガラシャ夫人の辞世の句も、たとい荒れ野でも殺されても、髪の毛一筋も失われることはない。神の愛と勝利は瞬時も、微塵も失われないという証、主の恵みの証人としての証でした。ルカ21:13、16~18。

(岡崎孝志師)