イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」といわれると、 ルカ10章26節
イエス様がお語りになった「よきサマリア人」のたとえです。
あなたはそれをどう読んでいるか
このたとえを解く鍵、それは、イエス様が律法の専門家に、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と質問されたことにあります。律法学者が、聖書をどう読んでいるか。また、そのことを現実の生活の中でどう適用しているか。それが、イエス様の問いでした。それに先立って、イエス様は、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者たちにお示しになりました」とおっしゃいました(ルカ10章21節)。幼子のようにではなく、知恵ある者、賢い者として、彼らは聖書を読んでいました。わたしたちも、自分の知恵に固執して、本質を見失ってしまっていることはないでしょうか。幼子の心を失ってしまっていることはないでしょうか。
幼子の心
さらに、先の箇所の続きですが、イエス様は、弟子たちの方を振り向いて、「あなたがたのみているものを見る目は幸いだ」とおっしゃったと記されています(ルカ10章23節)。イエス様によって、幼子の心を与えられた、それが弟子たち、またそれに続くわたしたちということです。知恵に固執し、かたくなってしまったわたしたちの心に、幼子の心与えて下さる。それが、イエス様であるということです。そして、そのために、十字架で死んで下さった。それが、イエス様ということです。このたとえのサマリア人、それは、イエス様のお姿を予表しています。
隣り人となる
このたとえは、福祉の分野で、善い働きをして来たクリスチャンの方が、よく引用されるお話です。また、博愛、人類愛ということを教えているたとえとして引用されるたとえでもあります。けれども、このたとえを通してイエス様が教えようとしておられることは、そのような壮大なことではありません。イエス様から愛を受け、幼子の心を受けて、目の助けを必要としている人の隣人となる。そのことを、イエス様は、わたしたちに求めておられるのです。
(前川隆一牧師)