わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
                            ルカ1章47節
 
マリアが、親類のエリサベトのもとを訪れ、その出会いを通して与えられた喜び、感謝、賛美にあふれて歌った賛歌です。

マグニフィカート
マリアは、「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言う前に、「わたしの魂は主をあがめ」と言っています。この「あがめ」ということばが、ラテン語では、「マグニフィカート」で、それは、大きくするという意味のことばです。わたしたちは、ともすると、自分の中で、神様を小さくしてしまいます。神様を見上げる。そして、神様の本来の大きさを自分の中で、回復をする。そのことを通して、与えられる喜び、それが、マリアが言っている「喜び」ということです。

目を留めてくださる神様
マリアは、神様を大きくして行くというその神様が具体的にどんな方であるかということを語っています。二つのことを語っています。それは、第一に、目を留めて下さる神様ということです。48節、「身分の低い、このしゅのはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう」と言われています。神様は、天のはるか高いところにいて、わたしたちを見下ろしておられるお方ではなく、わたしたちに対して、息がかかるほどに身近にいて、見つめて下さるお方、目を留めてくださるお方です。

偉大なことをして下さる神様
もう一つのこと、それは、偉大なことをして下さる神様ということをマリアは言っています。49節、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」と言われています。神様が意図されたわたしがわたしとして生きる。それが、美しいのです。そして、それがいちばん「偉大なこと」なのです。モーセも、ギデオンも、エステルも、そして、マリアも、神様が意図されたその人らしく生きた。そこに、彼らの人生の美しさがあったのです。そこに、彼らの人生の偉大さがあったのです。そして、わたしたちもまた、そのように歩むようにと召されているのです。

(前川隆一牧師)