こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。 Ⅱペトロ1:19
変貌山のできごとです。
輝くともし火
弟子たちの心が開かれた、それが、この変貌山のできごとでした。さらに言うなら、この後、弟子たちは、イエス様の教えに従って歩んで行きます。困難なこと、どうしたらよいのかと思い迷うようなこと、真っ暗な闇の中を歩むようなことを経験しながら、でもなおそこで、「光は輝いている」と光を見出して行くことができた経験、それが、この変貌山のできごとでした(ペトロ第二の手紙1章18~19節)。
主の弟子としての歩み
考えてみると、わたしたちもイエス様のことば、主のみことばに聴き従う主の弟子です。わたしたちは、罪と死の法則が支配しているこの世にあって、命と霊の法則に従って生きるようにと神様から召し出された、それが、わたしたちの歩みです。けれども、いつの間にか、罪と死の法則に引き戻されそうになる。また、自分はイエス様を信じてこのように歩んでいるけれど、ほんとうにこれでよいのだろうかと不安が頭をもたげて来る。そんな経験をわたしたちはするのです。
出会いの経験
キリスト教と言います。けれども、キリストの教え、それが、信仰の中心ではありません。キリストの教えが弟子たちを造り変えて行ったわけではありませんでした。イエス様がどう生きられたか。どう死なれたか。そして、そのイエス様を、父なる神様がどう復活させられたか。その事実が弟子たちを造り変えて行ったのでした。この変貌山における、イエス様の光輝くお姿、それは、十字架の死の後に、イエス様が与られる復活のお姿、栄光のお姿を先取りして経験されたできごとでした。そのイエス様との出会いによって、弟子たちは、心開かれて行ったのでした。
わたしたちも、そのような出会いをどこで経験することができます。それは、礼拝を通して、経験することができるのです。
(前川隆一牧師)