弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修業を積めば、その師のようになれる。 ルカ6章40節
イエス様による平地の説教の一部分、「人を裁くな」、「実によって木を知る」、「家と土台」と表題のつけられている部分です。
人を裁くな
その一つ一つのメッセージを読んで行くと、「なるほど」とうなずかされるところと、「あれっ」と、何か引っかかりを感じるところとがあります。たとえば、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」とあります。でも、現実には、人を裁いていないにもかかわらず、裁かれるということを、わたしたちは経験をするのではないでしょうか。ですから、ここで言われていることは、わたしたちが裁かないとき、神様が、わたしたちを裁かれないということです。
弟子は師にまさるものではない
また、40節で、「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修業を積めば、その師のようになれる」とあります。これも、もし、ほんとうにそうだとすれば、人類の文明の進歩ということはなくなってしまうのではないでしょうか。このことを、わたしたちはどのように考えたらよいのでしょうか。このことに関して、このことを言っておられる、それが、イエス・キリストであるということがポイントです。罪のない神ご自身が人となられた。それが、イエス・キリストというお方です。わたしたちは、どんなに修業、努力したとしても、イエス様の聖さにまで達することはできません。でも、そんなわたしたちに対して、聖書は、驚くべきメッセージを語っています。イエス様の聖さと愛と命を恵みとして、プレゼントとして与えるというメッセージです(エフェソ2章8~9節)。
みことばを聞いて行う
と言いながら、47~48節で、「行い」ということがちゃんと言われているではないか。そう言う方があるかもしれません。確かにそうです。でも、この行いとは、わたしたちが救われるための行いではなく、救われた感謝として、他の人を愛する愛に生きるようにと、わたしたちは招かれているということです。
(前川隆一牧師)