イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
荒野の誘惑のできごとです。
イエス様にとって
まず、イエス様にとって、この荒野の誘惑のできごとはどんな意味を持っていたのでしょうか。イエス様にとって、荒野の誘惑、それは、正しいことを行わせまいとする誘惑であり、イエス様のもっておられる能力を自分のために用いさせようとする誘惑であり、十字架を避けさせようとする誘惑でした。ですから、この三つの誘惑、それは、イエス様がその公生涯において、手を変え、品を変えて、繰り返しお受けになった誘惑でした。
わたしたちにとって
では、そのイエス様からの赦しと命を受け取ったわたしたちにとって、この荒野の誘惑はどんな意味を持っているのでしょうか。まず、第一の誘惑から学ぶこと。それは、主のことばに従って生きるということです。そしてそれは、主が下さる赦しといのちによって、そのように生きるようにと招かれているのです。
第二の誘惑から学ぶこと。それは、主に信頼するということです。どんなときにも、神様は、わたしたちのことをかえりみて下さっています(ペトロ第一の手紙5章7節)。心にかけて下さっている神に信頼して歩む。それが、信仰の歩みです。
そして、第三の誘惑から教えられること。それは、十字架を見上げるということです。どんなときにも、神様は、わたしたちのことをかえりみて下さっています。それは、自分の内ではなく、外に、キリストの十字架を見上げることを通して、そのことを知ることができるのです(ローマ5章8節)。
キリストの十字架を見上げて、神を信頼し、神のことばに生きる。それが、わたしたちの信仰の歩みです。そして、十字架を通して、世界を贖って下さり、やがて完全に贖い回復して下さる主のみわざに参与するように招かれている。それが、わたしたちの信仰の歩みなのです。
(前川隆一牧師)