遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか』と書いてあるとおりです。    ローマ10章15節

 
説教題を「良い知らせを伝える者の足」とつけましたが、言うまでもなく、15節のみことばからそれを取りました。

良い知らせを伝える者の足を美しいと感じる感覚
「良い知らせを伝える者の足は」と言われています。このみことばは、戦争に勝ったとか、新しい王様が即位したとかいう喜ばしい知らせを人々に伝える伝令の姿を下敷きにしていると言われています。その姿は、汗まみれ、泥まみれかもしれません。けれども、たとえば、もう自分たちの国は、戦争に負けてしまう。絶望だ。もういっそ、死んでしまおうか、と思っている人にとって、「勝ったぞ」と叫ぶ伝令の姿というのは、光り輝く姿として目に映ったのではないでしょうか。そのように、福音を伝える人の姿、福音のために奉仕する人の姿を美しいと感じ、自分も少しでもそのような者に近づきたいと思う。そんな感覚をわたしたちはたいせつにする必要があるということです。

神のなさることは、すべて時にかなって美しいと感じる感覚
第二のことですが、この「美しい」ということばですが、もう一つ別の訳し方ができることばが使われています。それは、「ちょうどよいときに」と訳すことのできることばが使われています。わたしたちは、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(コへレト3章10節・新改訳)と信じ、信頼する、そんな感覚を身につけて行くことがたいせつです。

その美しさが内におられるキリストから出ていると見抜いて行く感覚
第三に、福音を伝える人の美しさ、それが、どこから来ているかということを感じ取る感覚を持つということがたいせつです。わたしたちは、人間をあがめようとする過ちを犯してしまいます。そうではなく、福音を伝える人の美しさ、それが、どこから来ているかということ。それが、その人の内におられるキリストから来ているということを見抜いて行く、感じ取って行く、そのような感覚を身につけて行くことがたいせつです。

(前川隆一牧師)