ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。              ガラテヤ4章7節
 

ヘロデ
今日の福音書は、ヘロデが、怒って、ベツレヘムの二歳以下の男の子を皆殺しにさせたというできごとです。ヘロデは、政治家として能力のある人でしたが、非常に猜疑心の強い人物でした。救い主イエス様を殺そうとしたのも、自分に取って代わる王を抹殺しようとしたのでした。このヘロデの生き方というのは、決して他人ごとではありません。わたしたちの心の中にも、ヘロデの心が生きているのです。

殺されたベツレヘムの幼子
この世の中に起こる悲惨なできごと、それに対して、人間的にすぐ結論を出そうとしない方がよいのです。ただ、ボンヘッファーがこの箇所に関して言っていることばに心を留め、思い巡らしたいと思います。「ベツレヘムにおいて殺された幼子たちは、気の毒だとわれわれは言うかもしれない。けれども、違う。この子どもたちはしあわせだった。この子どもたちは祝福されたのだ。なぜか。イエスのために死んだのだ。そして、イエスはこの子どもたちから離れないのだ」。ボンヘッファーが幸いと言った。それは、喜びのときがあり、悲しみのときがある。そんな人生を貫いて、主キリストがともにいて下さる。キリストがともにいて下さるから幸いと言える信仰ということです。

自由の子
今日の使徒書は、ガラテヤ信徒への手紙4章でした。ガラテヤのクリスチャンたちは、キリストにあって自由な者とされた。それにもかかわらず、異なる福音が入って来たとき、ふらふらとそちらの方になびいてしまった。それは、やはり、僕としての時代の感覚が染みついていたからでした。「信仰だけでは不十分だ。割礼も必要だ」と言われたとき、「それもそうだ。信仰だけによって救われるなんて、虫が良すぎる」と思ってしまったのでした。確かに、彼らは、行いとしては何もすることはなかった。けれども、その背景に、キリストがその命という犠牲を払って彼らを自由の子として下さったのでした。

(前川隆一牧師)