わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。                   ヨハネ6章54節

 
ヨハネによる福音書6章22節から続くイエス様の長いお話の最後の部分です。

ガリラヤ湖の向こう岸からやって来た人々
ヨハネ6章22節からの箇所、イエス様が相手をしておられる対象が少しずつずれて行っているということが分かります。まず、最初の部分ですが、イエス様は、ガリラヤ湖の向こう岸で、パンの奇跡を経験した人々と相対して行かれました(ヨハネ6章24~26節)。彼らは、イエス様の奇跡に感動し、その感動の思いのそのままに、イエス様を追いかけてやって来た人々でした。

カファルナウムの地元の人々
その次に、イエス様が相手をされる、それは、カファルナウムの地元の人々でした(ヨハネ6章41~44節)。彼らは、自分たちの経験、慣習、常識の枠の中で生きようとしていた人々でした。彼らにとって、イエス様という存在は、枠から外へとはみ出してしまった存在以外の何ものでもありませんでした。

十二弟子たち
 そのような人たちに対して、十二弟子たちは、自分たちのことをどのように認識していたでしょうか。ガリラヤ湖の向こう岸からやって来た人々、彼らが、自由であり、行動的ではありますが、正しくしつけられていないのに対して、自分たちは、イエス様を通して、神様のことばを正しく学んでいる。また、カファルナウムの地元の人々、彼らが、自分たちの経験、慣習、常識の枠の中だけで生きていたのに対して、イエス様のおことばに従って、冒険へと踏み出して行った。自分たちこそが、神様のお喜びになる正しい歩みをしている。そんな風に、自負していたのかもしれません。でも、ほんとうにそうだったのでしょうか。十二弟子たちが、ほんとうの意味で、神の前で、また、人の前で、正しい歩みをすることができるようになった、それは、イエス・キリストの十字架の赦しを受け取ってからのことでした。十二弟子たちは、イエス様の赦しを受けて、赦す者、愛する者となって行ったのでした。わたしたちも同じです。

(前川隆一牧師)