盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
ヨハネ10章10節
今日の詩編は、詩編23編、そして、福音書は、ヨハネによる福音書10章の「羊の囲い」のたとえ、イエスは良い羊飼いと表題のつけられている箇所です。
何のことか分からなかった
ヨハネによる福音書10章1~5節に記されているイエス様のたとえ話は、子どもでも理解できる内容です。ところが、6節を見ると、ファリサイ派の人々は「何のことか分からなかった」と記されています。それは、イエス様が、真の羊飼いとして迷えるわたしたちを捜すためにお出で下さったお方ということを彼らは理解できなかった。悟ることができなかったということでした。
羊の門
では、どうして、ファリサイ派の人々、当時の宗教的指導者たちは、イエス様こそが、まさに、真の羊飼いとして迷えるわたしたちを捜すためにお出で下さったお方ということを理解できなかったのでしょうか。それは、自分が、羊であるということを認めなかったからでした。自分の力と知恵でやって行けると思ったからでした。そしてそのことが、すなわち、イエス様がご自分を指して、「わたしは羊の門である」とおっしゃったことの意味していることがらでした。彼らは、イエス・キリストという門をくぐろうとしないで、外から眺めていた傍観者たちでした。また、イエス・キリストという門をくぐろうとしないで、ほかの所から入ろうとした盗人であり、強盗でした。
信仰の戦い
第三に、今日の箇所、それは、戦いということ、信仰の戦いということを語っています。それは、主に聴き従うという戦いです(4)。そのためにたいせつなこと、それは、礼拝ということです(詩編23編6節)。わたしたちは、絶えず原点に立ち返って、主のみもとにひれ伏し、礼拝する。そのことを通して、神様に対する信頼と人々に対する愛をもって、人々のところへ遣わされて行くことができるのです。そして、イエス様の命、豊かな命に生かしていただくことができるのです(10)。
(前川隆一牧師)