ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽せよう。                ローマ11章33節
 
ローマ信徒への手紙11章の最後の部分です。

ミステリー?
25節に、「秘められた計画」とあるのは、別の訳では、「奥義」と訳されており、英語の聖書では、「ミステリー」ということばが使われています。わたしたちが神を信じる信仰とは、どのようなものなのでしょうか。わたしたちにとって、神様は、いるかいないか分からないといった不可知論者が唱えるようなお方ではありません。とともに、神様は、自分の手に携えることのできるようなお方ではありません。わたしたちには、理解しえない、知り得ない神様のみこころというものがある。そのことに対して、畏れを持つ必要があります。

不従順になっていますが、憐れみを受けるためなのです
神様のみこころは、わたしたち人間の思いをはるかに越えています。そのことに対して、わたしたちは畏れを持つ必要があります。そのような視点、観点から見直してみると、「イスラエル人は不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです」というみことばも解けて来ます。わたしたち人間は、たとえば、子どもに対して、人間的によいと思うレールを敷いて、そのレールに従ってわが子が歩んでくれるように願い、そのように仕向けようとしたりします。けれども、神様はそうではありません。一旦、不従順に歩むそのするがままに任せ、そこで、神様に逆らって歩むことの限界、むなしさを経験させ、その上で、神様のみもとへと立ち返らせる。それが、神様のみこころであるということです。

賛美
もう一つ、「神に敵対していますが」「神に愛されています」ということが言われています。わたしたち異邦人もまた、神に対して敵対していた者が救いへと招かれたのです(ローマ5章11節)。ということは、33節の神の知恵と知識に対する賛美、それは、イスラエル人の救いということだけではなく、すべての人を救おうとされる神様の知恵と知識とが賛美されているということです。

(前川隆一牧師)