確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。 ルカ14章34節
フィレモンの手紙を通して、パウロの生き方から、神を計算に入れることの賢さということについて学びたいと思います。
主を畏れる
1節を見ると、「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン」と言われています。キリストに捕らえられ、キリストのみ旨の中で、今ここにいるという状況判断、それが、パウロの状況判断であったということです。まず、神を見上げる。さまざまなできごとのある中で、神を計算に入れて、判断し、行動する、そんなパウロの知恵ということを教えられます(箴言1章7節)。
「憐れみと良い実に満ちた」智恵
フィレモン、彼は、パウロが、「いつも神に感謝します」と言うことができるようなすばらしいクリスチャンでした。そのフィレモンにして、なお、自分のもとから逃亡してしまった「オネシモ」の名前を出したときに、フィレモンの心が硬く閉じてしまわないか、パウロは、精一杯の配慮をしながら、オネシモのことを伝えようとしました。パウロの知恵は、冷たい、カミソリのような知恵ではありませんでした。「温和で、優しい」智恵でした。「憐れみと良い実に満ちた」智恵でした(ヤコブ3章17節)。
建て上げて行く知恵
第三に、心に留めたい、それは、8~9節です。フィレモンにとって、パウロは、霊の父、霊的なお父さんと言える存在です。パウロは、その権威をもって、フィレモンに、オネシモを受け入れるよう命じることもできました。けれども、パウロは、「愛に訴えてお願いします」そう言っている、ということです。今日の福音書の箇所の続きに、このようなみことばがあります。「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか」パウロは、塩の役割を果たし、その知恵を人が建て上げられることのために用いて行きました。
(前川隆一牧師)