早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のものに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。 エステル記4章16節
エステルが、命がけで、王のいる王宮の庭に入って行ったできごとです。
エステルの知恵
求めを尋ねる王に対するエステルの答えは、「ハマンといっしょに、酒宴に来てほしい」というものでした。そして、酒宴にやって来た王に対して、エステルが願ったこと、それは、明日、もう一度、ハマンといっしょに酒宴に来てほしいというものでした。この一連のエステルの言動は、知恵に満ちたものでした。第一に、エステルは、食事をともにすることを通して、王の心が開くということを知っていました。第二に、エステルは、願いを打ち明けるのを遅らせることによって、事の重大性を匂わせることができるということを知っていました。第三に、エステルは、ハマンもいっしょに酒宴に招くことを通して、ハマンの心に隙間を作ることができるということを知っていました。そして、第四に、エステルは、主導権を完全に王に委ねました。王自らが、「こうだ」と決めたことにこそ、大きな効力があることをエステルは知っていたのでした。そして、このようなエステルの知恵、それは、エステルが、神様と交わり、その祈りの交わりの中で、与えられた知恵でした。
エステルの覚悟
その祈りの背後にあった、それは、エステルの覚悟でした(エステル4章16節)。エステルは、死ぬ覚悟を決めて、神様に祈ったのでした。実は、これは、イエス様もおっしゃっておられたことでした(マタイ16章24~26節)。自分の命を救おうとする者は、それを失い、それを手放す者は、それを得る。それが、信仰の原則です。けれども、それは、何も特別なことではないのです。洗礼によって、キリストとともに古き人にしに、新しい人によみがえった、それが、クリスチャンの存在です。そして、その洗礼の原点に立ち返り、日々、新しい人として生きる。その積み重ねの中で、もしかして、エステルのような大きな決断を迫られる場面に出くわしたとしても、わたしたちは、知恵と勇気と平安をいただくことができるのです。
(前川隆一牧師)