だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。     ルカ14章11節
「安息日に水腫の人をいやす」、「客と招待する者への教訓」と表題のつけられている箇所です。

神の前にへりくだる
7~11節、それは、イエス様が、「謙譲の美徳」ということを教えようとしておられる箇所なのでしょうか。そうではありません。ここでのイエス様の教えの中心、それは、11節です。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」人と人との比較ではなく、神の前に、低くされること。神の前にへりくだること。そのことのたいせつさをイエス様は教えようとしておられるということです。

罪を認める
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」、それは第二に、神様の前に罪人であると認めるということでもあります。神様がいちばんお嫌いになる。それは、聖いものと聖くないものとが混ざり合っている状態、それが実は、神様がいちばんお嫌いになる状態なのです。ファリサイ人たち、彼らは、確かに道徳的な生活を送っていたかもしれません。けれども、その聖い生活と高ぶりの罪とが混ざり合っている。そこに、かえって、イエス様は、ファリサイ人たちの罪深さをご覧になっておられました。

赦されて赦す者へと
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」、第三に、そのように神様の前に罪人であると認めるわたしたちを神様が赦して下さる。その赦しを受けて、赦す者となって行くことができる。罪人であると認めるわたしたちを神様が憐れんで下さる。その憐れみを受けて、憐れむ者となって行くことができるのです。「あの方とわたしの間を調停してくれる者 仲裁する者がいるなら」(ヨブ記9章33節)。あの方、すなわち、父なる神様とわたしの間を調停して下さるお方、仲裁して下さるお方がいたなら。ヨブは、まだ、そのお方を見ていませんでした。そのお方、すなわち、イエス・キリストの十字架の赦しを受けて、わたしたちは赦す者とされるのです。そのお方、すなわち、イエス・キリストの憐れみを受けて、わたしたちは、憐れむ者としていただくのです。

(前川隆一牧師)