ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。 詩編27編4節
詩編27編全体の中心、それは、4節です。
主との交わり
ダビデは、歴戦の勇者でした。けれども、その勇ましさ、力、確信の厳選、それは、主との深い交わりにあったということです。また、ダビデは、そのような深い主との交わりの中を歩んでいましたので、深い苦難の中で、心を注ぎ出して祈り、ありのままの思いを打ち明けることができたということです。
麗しい経験
第二のことですが、この4節、新改訳聖書では、このように訳されています。「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。」ダビデにとって、主との交わり、それは、「麗しい」ことであったということです。ダビデにとって、主との交わり、それは、調和を取り戻し、調和を回復する経験でした。さらに、主との交わりから遣わされて、生き、働き、奉仕する生活の現場、そこにおいても、ダビデは、麗しい経験を経験することができたのでした。
主が与えて下さる経験
第三に、覚えたいこと、それは、その麗しい経験は、あくまでも自分で造り出すものではなく、主が与えて下さる経験であるということです。今日の福音書の聖書の箇所で、特徴的なこと、それは、「従った」ということです。今日の箇所の続き、来週、聖書日課の箇所として読まれるマタイによる福音書5章、それは、山上の説教の箇所です。山上の説教で語られていることがら、それは、決して処世訓ではありません。イエス様に従うときに経験する幸い、それが、山上の説教の冒頭で教えられていることがらです。ペトロは、主に従うことを通して、麗しい経験をしました。ダビデも、主に従うことを通して、麗しい経験をしました。そして、わたしたちも主に従うことを通して経験する麗しい経験へと招かれているのです。
(前川隆一牧師)