「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

                            マルコ1章15節
詩編は、「沈黙」ということばが繰り返されている詩編の62編でした。そして、福音書は、イエス様が、メシアとしての第一声を上げられたこと。そして、四人の漁師をご自分の弟子として招かれたできごとでした。

神の国
「沈黙」ということ、イエス様が主の弟子を招かれたということ、一見、バラバラのことのように思えます。けれども、この二つのことを繋ぐものがあります。それは、「神の国」ということです(15)。「沈黙」ということ。仏教でも、瞑想こそ、その根幹であると言われます。けれども、仏教の場合、「沈黙」、それが、目的そのものであるのに対して、キリスト信仰の沈黙、黙想は、生きておられる神に向かうことを目的としています。また、主の弟子として生きるということ。それもまた、この神の国ということを正しく理解するということを前提としています。

人間をとる漁師に
最後に、その神の国を実現するためにお出でになった、それが、イエス様であった。そのことに心を留めたいと思います。イエス様は、ペトロとアンデレに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とおっしゃいました。実は、この「人間をとる漁師」ということが、旧約聖書にも出て来ます(エレミヤ書16章16~17節)。神様だってそうだからと言って、自分たちを神様の立場において、人を裁いている、それが、弟子たちでした。そんな彼らが、本格的に、「人間をとる漁師」になって行った、それは、イエス様が十字架で死に、復活された後のことでした。わたしたちは、罪人を狩り出し、すなどろうとされる神様の前に、捕らえられ、裁かれて当然の罪人です。そのわたしたちの身代わりに、罪のないお方が裁かれて下さった、それが、キリストの十字架でした。このキリストの十字架によって、赦され、いやされて、弟子たちは、「人間をとる漁師」なって行くことができたのでした。わたしたちも同じです。

(前川隆一牧師)

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