「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ルカ12章21節
イエス様がお話になった「愚かな金持ち」のたとえです。
自分の魂にこう言おう
このたとえの金持ちは豊作になり、有り余った穀物を蓄えておこうとしただけでした。どうして、この金持ちは、神様から「愚かな者よ」と言われなければならなかったのでしょうか。それは、彼が自分に向かって、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができた。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と言った、そのことにありました。以前の口語訳聖書では、「自分の魂にこう言おう」となっていました。魂が、物によって満たされると思った、そこに、この金持ちの愚かさがありました。
神の前に豊かになる生き方とは?
イエス様は、このたとえの結びとして、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」とおっしゃいました。では、「神の前に豊かになる生き方」とはどんな生き方なのでしょうか。このたとえ話の中の金持ちは、魂が、物によって満たされると思いました。逆に、貧しさの中で生きる。修道院に入って、禁欲生活を送ることが神の前に豊かになる生き方なのでしょうか。「愚かな金持ち」のたとえの金持ちは、魂が物によって満たされると思っていた、そこに彼の愚かさがありました。でも逆に、清貧に甘んじ、徳を積む生活をどれだけ積み上げたとしても、そのことによって、わたしたちは魂を満たすことはできないのです。
キリストの十字架を誇る生き方
では、「神の前に豊かになる生き方」とは、どのような生き方なのでしょうか。ローマ5章11節には、このようにあります。「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」。自分の内ではなく、自分の外側で起こったキリストの十字架と復活、そしてそのことを通して、開かれた救いのみわざを誇りとして生きる、それこそ、「神の前に豊かになる生き方」なのです。
(前川隆一牧師)