城門を、頭を上げよ とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。

                             詩編24編7節

 
生きる土台が揺らぐような日々を送っているわたしたち、そのような中で、今日の詩編を通して、根底を支えてくれるお方に目を向けて行きたいと思います。

目的をもって創造されたお方
詩編24編は、わたしたちの「生理的欲求」を支えるものを造り、無代価で与えて下さったお方、しかも、すべてのものを、目的をもって創造されたお方に、わたしたちの目を向けさせ、心を向けさせてくれます。

神のみもとに行く資格のある人
第二に、では、どんな人が、この神様のみもとに行くことができるのかを明らかにしています。「それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく 欺くものによって誓うことをしない人」(4)。手がきよいだけでなく、心もきよい人、それは、わたしという存在が、自分で自分を救うことができない罪人であると認め、人間的に頼るべきものを手放し、空の手で、神様の恵みを受けようとする、その人こそ、神様のみもとに行く資格があるということです。

栄光に輝く王
それにしても、第三のこと。今日の詩編の最後の部分ですが、「城門を、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。」そのように、「栄光に輝く王」ということが繰り返されています。罪に汚れたわたしたちのもとに、栄光に輝く王が来られるとは、あまりにも似つかわしくないのではないでしょうか。実は、イエス様は、不思議なことをおっしゃいました。「人の子が栄光を受ける時が来た。」ヨハネ12章23節です。イエス様にとって、「栄光」とは、ご自分の十字架の死のことを指していました。神様は、わたしたちといっしょになって、怒り、泣き、落ちこんで下さるお方です。いや、わたしたちが悲しむ以上に悲しんで下さるお方、わたしたちが怒る以上に怒って下さるお方です。わたしたちの身代わりに十字架で死に、どん底を味わったお方として、主はわたしたちのもとへ来て下さるのです。そして、わたしたちを招いて下さっているのです。

(前川隆一牧師)