あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。          ローマ6章22節

 

「義の奴隷」と表題のつけられているところです。

服従
19節で、「分かりやすく説明しているのです」というところは、口語訳聖書では、「わたしは人間的な言い方をするのですが」という訳になっています。それは、「義の奴隷」ということについてです。罪と死という主人から、イエス・キリストという新しい主人に変わったのだから、もはや罪と死の言うことを聞く必要がない。そうパウロはここで言っているということです。ただ、義の奴隷という表現にどうも引っかかるという方があるかもしれません。それが、まさに、パウロが、「人間的な言い方をするのですが」と断っていることがらなのです。

信頼
17節で、「伝えられた教え」とありますが、この「伝えられた」というところは、厳密に訳すと、逆の意味になるようです。教えが伝えられたということではなく、わたしたちの方がその教えに渡された、そう言っているということです。奴隷として服従する、それは、「渡される」こと、その主人に自らを「委ねて行く」ことなのです。わたしたちは、新しい主人に対する服従と従順のために召されたのである。そして、その服従、従順とは、愛と信頼を持って自らを委ねて行くことである。そうパウロはここで言っているということです。

実を結ぶ
第三に覚えたいこと、それは、わたしたちが主キリストに信頼してお委ねする。お委ねしつつ、従う。それは、わたしたちが実を結ぶためであるということです。わたしたちが、個人の信仰者として、あるいは、教会として、命をはぐくみ育てて行くべき、それは、命に与るということ、礼拝ということです。そして、いのちを伝えるということ、あかし、伝道ということです。わたしたちは、個人として、また、教会として、何がそのいのちを育み、育てて行くべきものであるのか、ということを点検し、判断していく必要があるのです。

(前川隆一牧師)