まして神は、昼夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。 ルカ18章7節
「やもめと裁判官」のたとえと表題のつけられているところです。
行動の祈り
祈りということに関して、いろいろな分け方がありますが、一つには、「退いて祈る祈り」と「行動の祈り」という二つの祈りがあります。わたしたちは、一方において神様に信頼を置いて、退いて祈る必要があります。とともに、このやもめがひっきりなしに裁判官のところに赴き、裁判官の心を動かしたように、行動しつつ祈る、祈りつつ行動する必要があるのです。
まして神は
では、神様は、わたしたちの祈りの熱心さによって、祈りを聞いて下さるということがここで教えられているのでしょうか。実は、このたとえ話は、途中でこわれていると言った人があります。「まして神は」と言われたときに、このたとえはこわれたのです。なぜなら、神様は、不正な裁判官ではないからです。神様は、完全なる義なるお方です。正義のお方です。わたしたち不義なる人間と交わるところなどありえないお方です。そのお方が、自らをこわして人となって下さった、それが、イエス・キリストというお方なのです。神様は、わたしたちの熱心さを上回って、失望しないで、疲れないで、わたしたちの祈りに耳を傾けて下さるお方なのです。そのように確信することができる根拠、それは、あの十字架なのです。
地上に信仰を見出すだろうか
もう一つ。ですから、今日の箇所の最後、「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と締めくくられているのも、イエス様が突き放しておられるのではなく、わたしたちを信仰へと招いて下さっているみことばなのです。わたしたちが「行動の祈り」を祈って行くために必要なこと、それは、心の柔らかさです。でも、ともするとわたしたちの心は固くなってしまうのです。わたしたちは、絶えず絶えず、十字架の愛によって心を柔らかくしていただいて、祈って行く必要があるのです。
(前川隆一牧師)