「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」       ルカ13章8~9節
 
わたしたちが経験する不条理なできごとに対して、どのように対応するようにと求められているのか。そのことについて、多くのことを教えてくれる箇所です。

滅び
イエス様は、まず、第三者として不条理なできごとを受け留め、評論家になるのではなく、自分の問題として受け留めるよう促されました。「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」(3、5)。そこで、問題になる、それは、「滅びる」ということばです。「滅びる」、それは、聖書では、いわゆる「非業の死を遂げる」という意味のことばではありません。「行方不明」「姿を見失う」という意味のことばが使われています。イエス様は、どのような死に方をしたかということではなく、死後のことを問題にしておられるということです。わたしたちは、罪人であるということの故に、等しく神様の前に失われた存在なのです。そして、肉体の死に至るまで、神様に立ち返るということをしないなら、永遠に失われた者となってしまうのです。

悔い改めよ
だから、「悔い改めよ」と言われたということです。では、悔い改めるとは何を意味しているのでしょうか。このことを理解するために、「悔い改めよ」とおっしゃったお方がどんなお方であるのか、ということがたいせつです。それは、6節から記されているイエス様のたとえ話に表わされています。この園丁の姿、それは、イエス・キリストのことを表しています。神様が、わたしたち人間の救いのために、行動を起こして下さった、立ち上がって下さった。それが、イエス・キリストのできごとでした。つまり、悔い改めとは、わたしの救いのために行動を起こして下さったお方、十字架で死んで下さったおかた、すべてを成し遂げて下さったお方、そのお方に目を向け、心を向けるということなのです。そして、イエス・キリストが十字架と復活を通して勝ち取って下さった救いを受け取るということなのです。

(前川隆一牧師)