盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。 ルカ18章43節
エリコの近くでイエス様が一人の盲人をいやされたできごとです。
熱心な信仰
まず、この盲人は、妨害が入れば入るほど、火に油を注ぐように大声で叫び続けました。そのように、熱心に、必死に、イエス様に願うそんな信仰を彼は持っていました(38~39)。でも、熱心といっても、方向がまちがっている熱心ということもあります。パウロももともとは、熱心に教会を迫害する人でしたが、復活の主と出会い、熱心に主をあかしする人に変えられた人でした。この盲人の熱心、それは、自分のもとにお出で下さったイエス様によって引き出された熱心さでした。
結晶化された信仰
第二に、この盲人の信仰、それは、結晶化された信仰でした。イエス様が、「何をしてほしいのか」とお尋ねになったとき、彼は、「主よ、目が見えるようになりたいです」とズバリと応えています。今まで、彼は、道端で物乞いをしていました。「1000円くらいだったら、お願いしてもよいでしょうか」と言ってもよかった場面でした。でも、彼は、ズバリと、「目が見えるようになりたいです」と答えました。
人格的な信仰
第三に、43節に心を留めたいと思います。「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」と記されています。第三のこと、それは、人格的な信仰ということです。人格的に応答して行く信仰ということです。彼は、目が見えるようになったら、よかったよかったということで、その後、自分勝手に生きることもできました。けれども、彼は、イエス様に従って行ったのでした。この盲人の信仰、それは、人格的な信仰、主に応答して行く信仰でした。わたしたちも、そのことが求められています。そして、そのとき、わたしたちは、主がともにいて下さるという何にも替えることのできない平安を経験させていただくことができるのです。
(前川隆一牧師)