わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
フィリピ1章21節
今日の箇所を通して、パウロが、キリストを主としている信仰ということについて、学びたいと思います。
苦難の中でキリストを主とする信仰
第一に、「苦難の中でイエスを主とする信仰」ということです。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(12)。パウロは、ローマの暗い、冷たい牢獄の中にいました。それに加えて、そのことを、悪意をもって捉え、キリストの教会を引っかきまわそうとする人々がいました。でも、そんな現実の只中で、パウロは、キリストを主と見上げていました。
祈りにおいてキリストを主とする信仰
第二に、パウロは、祈りにおいて、イエス様を主として行きました。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けにとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです」(18~19)。パウロが、自ら投獄されるということが、福音の前進につながると受け留めた。それは、そのことによって、多くの教会に祈りが生まれたからでした。それは、祈りのシンフォニーとなって、神の国を前進させていく力となって行くということを知っていたのでした。
生においても死においてもキリストを主とする信仰
第三に、パウロは、イエスを生においても死においても主として歩みました(21)。キリストを信じ、クリスチャンとして歩むとき、あわただしい日常の中で、「キリスト」というゴールにいつもいつも照準を合わせながら、人生を歩むことができるのです。また、パウロは、「死ぬことは利益なのです」と言いました。それは、逆に言うなら、パウロは、この地上において、すばらしい主との愛の交わりに生きることができた。だからこそ、その完成である天国における主との愛の交わりに対するあこがれをもったということでした。
(前川隆一牧師)